自由という名のもとに

今朝のこと
あきみ姉が寝坊
いつもよりも1時間以上遅く起きた
絶体絶命
完全に遅刻
なのに 本人
ゆっくりトイレ
ゆっくり身だしなみ
ゆっくりあさごはん
時間がないなかでの行動とはとても思えない身支度
日頃の不摂生
けじめのない生活
最低限のこともまともにできていない日々
・・・・・・・・
(これらは親からみた意見
 本人にはきっと何の問題もないのだろう)
しかし
親としては見るに見かねている今日この頃だった
わが家は基本
本人にその行動の全責任を負ってもらっている
「自由」という名のもとに
寝坊も自由なら
遅刻も自由
勉強するのもしないのも
すべてが本人の選択
とみなすことにしている
だって
親の私は何も困らない
なぜならそれらはあきみ姉の課題
あきみ姉のすべきことだから・・・
明らかに 親のすべきことではない
というわけで
確実に遅刻 という時刻に家を出ていったあきみ姉
遅刻しそうだっていうのに
送ってくれない親に対して
思いっきり腹を立てながら出ていった
わが家の自由は
相手への信頼 が根底にある自由
親の本心は もちろん遅刻なんかさせたくない
でも本人の選択・行動の結果の遅刻だったとしたら
こういうときは仕方がない
送ってあげたい気持ち
歯がゆい気持ちをぐっとこらえ
見守っているしかない
だって 信じているから
もし遅刻するのが嫌で学校いかずにさぼったりしたら?
どこかでアクシデントがあったら?
急いでいて怪我したり 事故にあったりしたら?
・・・・・・・・
心配ばかりが頭をよぎる
でもこれらの不安は親本人のもの
あきみ姉のものではない
相手のこと
最後まで信じていれば不安にならずにすむ
そんなこと話しながら
私たち夫婦は
ずっと見守っているしかなかった
あきみ姉が学校に着くであろう時刻
やたらと時計と電話が気になる
着いていなければ学校から連絡が入るだろう
連絡はなかった
どうやら学校にはたどり着いたらしい と認識
ちょっと安堵
深く安堵
相手の課題を自分のものと思い違いすることは
真の意味で お互いのためによくない
どこまでが子供の課題で
どこからが親の課題なのか?
親子であっても
親子であるからこそ
しっかり線引きしたい
お互いの自立のために
夕刻
何事もなかったように あきみ姉帰宅
機嫌もいつも通り
何時に着いたか?聞くと
猛ダッシュして
いつもなら考えられない時間で駅まで着いたらしい
結果
電車・バス とスムーズに乗ることができ
あとはすべて猛ダッシュ
20分は裕に遅刻だったはずのところ
2分の遅刻で済んだらしい
奇跡だ
思わず「よくやった!」と
心の叫びがでてしまう
自分の責任 自分でとったあきみ姉
えらかった
親に対する この野郎!!!という怒りのエネルギーは
どうやらあきみ姉の猛ダッシュに大きく貢献したらしい
この怒りがあってこその奇跡的な走りだったのだ と
親はがまん
子どもは全力疾走

今日の「朝寝坊」というできごとを
それぞれがそれぞれの課題と向き合い
それぞれの立場でクリアした
そんなことがあった今日という日♪
明日はどうか
普通の朝であってほしい

 

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