昨日で全10回の講座が終わった
「犯罪被害者支援ボランティア養成講座」
振り返りと個々に感じたことをみんなで話し合った
そのときのわたしが話したいこと
話せた気がする
第1回目のどきどきと緊張
いつのまにか消えていることに気づいて
なんだかうれしかった
講座のみなさんの存在 ひとりひとりが
わたしに「話す勇気」を与えてくれた
色々な意見・考えがあった
帰ってからも
わたしのなかではまだ振り返りが続いている
「被害者支援」
何をもってしてそのことをさすのか?
何をしたらよいのか?
そこに答えはなく
日々支援にあたっている人々も模索し
自身と向き合い
ときに無力感に苛まれながら
寄り添っている ということ
そうなのかもしれないな
と想像はしていたけれど
今回の講義を受けて 改めてそのことを強く感じた
わたしは実際に被害者遺族として支援を受けた
そのときには気づかなかったこと
講義を受けることによって
新たな視点に立つことができ
自分で自分たちの受けてきた支援を
段階的に振り返るよい機会にもなっている
「被害者支援」
そこに決まった正解というものはなく
支援者として
あらかじめ学ぶことのできる事柄について知識を携え
目の前の支援を必要としている方の「今」に寄り添うしかないのかな?
そんな風に感じた
「支援」は いきもの みたいだなあ
支援を必要としている その人は「今」生きている
支援をしよう としている人も「今」生きている
だからお互いの「今」を共有し
支援を必要としている人の過去も含めた
その人のすべてである 「今」 に寄り添うこと
イメージでとらえると
そういうことなのかな
でも だから何をすればいいの?
は おそらくひとりひとりが自分と向き合い
相手と向き合い 考えていくもの
支援をしようとするひとりひとりの人間が
悩み・模索しながら
目の前の支援を必要としている人とともに
考え ともにつくり上げていくこと
同じ方向を向きながら・・・
「共同作業」
そういってもよいのかもしれない
だから 支援はいつもオリジナル
そういうもののような気がしてる
そのとき
支援を必要としている人と真剣に向き合えば
その人との間に きっと何かが生まれる
それをともにあたため・共有し
一緒に同じ方向に向かっていく
そのとき
必要なもの は ただひとつ
あたたかい心
自分のなかにある
清らかで純粋なこころ
それらはとってもあたたかい
そのこころをもって
その人のそばにいることさえできれば・・・
自然とどうふるまえばよいか?
どうあればよいのか?
感覚的にわかるのかもしれない
傷ついた人の前にいることは
慎重を要するかもしれないけれど
実は 体当たり
がもっとも必要なものなのかもしれない
傷ついた人は
近づいてくる人に対して
自分とどのように向き合おうとしているのか?
嫌というほどわかってしまうもの
傷ついているからこそ
「真実」がみえてしまう
人のこころ 敏感に察知するようになっている
だから偽物のこころは通用しない
こころのなか のぞかれても大丈夫!くらいの
「勇気」がもっとも必要かもしれない
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