「ちゃんとする」って
自分の心や人の気持ちよりも大事なのかな?
子どもの頃からずっとふしぎに思ってきた
楽しくって笑いたいのに「ちゃんとする」
悲しくって泣きたいのに「ちゃんとする」
ふざけたいのに「ちゃんとする」
・・・・・・・・
「ちゃんとする」ってなんだか窮屈だなあ って
そんなんじゃほんとの自分 わからなくなっちゃうよ って
大人になった今もなお そう思ってるわたし
「ちゃんとする」ために生まれてきたわけではないような・・・
そんな気がする
「ちゃんとする」って
ある一面からみたら立派?みたいに思えるかもしれないけど
そのために自分の心や人の気持ち
大切にできないのだとしたら・・・
それはほんとの「ちゃんとする」ってことなのかな?
人として
生きてる限り自分自身に問い続けたい
そして
その問いの答えに導いてくれるような「人」が
わたしの前へ次から次へと現れる
そういう人との出逢いのときに感じる安心感
とっても心地よい
これから先もずっと用意されている気がしてる
「わたし」が「わたし」であるために
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