ありがとうの日

2月17日はあきみの命日。

なんとなく知ってはいたけれど命日ってなんだろう?
と ふとあらためて思い 調べてみる。

人の亡くなった日。忌日。

その人を偲ぶ日

と一般的にはそういうことみたい。

実際のところ
わたしたちのあきみへのおもい、考え方、進み方は
一般とはすこし異なっている。

わたしたちはこの日を
あきみのもうひとつの誕生日として認識している。

なかなか理解されにくいけれど今現時点において
少なくともわたしたち家族にとって
この日 あきみの死 は悲しいものではなくなっている。

悲しくはないけど
生前の(人間の)あきみのことを脳裏にリアルに描き出し
あきみに対する自らのおもいを限りなく大きくしていくと切ない。

その 切なさ とは 愛しさ といってもいい。

やりきれない気持ちとはちょっとちがう。

言葉にするとそういう感覚。

あの日からずっと
あきみの存在をいつもそばに感じ
生きているからかもしれない。

確かに5年前のこの日はただただ悲しかった。
嘆くことしかできない愚かな自分を自分自身で見ているしかなかった。

でもそれからの道のり
あきみはずっとそばにいて一生懸命支えてくれている。

みえない でも いる

不思議だけど
不確かだけど
自分にしかわからない この確かな感覚。

心が今こんなにも穏やかでいられるのは
あきみとともに歩んできたから。

あきみを信じて 自分を信じて
家族それぞれを信じて歩んできたから。

そんなわたしたちのまわりには
そんなわたしたちをありのまま受け止めて
見守り続けてくれる存在がいて
いつも心地よい。

5年前
苦しくて仕方なくてどうすることもできなかった自分の心
こんなにも変わるなんてそのときの自分はまったく想像できていなかった。

絶望。

ただそれしか感じてなかった。

だけど今思う。

嬉しい、悲しい、楽しい、つらい、面白い、好き、嫌い、心地よい・・・
などなど
様々な感情は微細なものから巨大なものまで
いつもどんな時もその人の心のなかに入り混じって存在している。

そのどの部分 どの感情が どのくらいの割合を占めるか?

それによって人間は今の自分の気持ちを感じ
認識しているのかもしれない。

5年前 わたしのなかに最も優位にあった感情

それは「悲しい つらい」

なんのための「つらい」なのか?
誰のための「悲しい」なのか?
今 本当にその感情を感じる必要があるのか?
・・・・・・・・
自分自身に問いかけ 語り掛け 対話を重ねる日々。

自分のなかに際限なく沸き起こる
ひとつひとつの感情をみつめてきた。

そのひとつひとつと丁寧に向き合うと
やがて自分自身でその答えにたどり着き
自分で自分を癒していることに気づく。

そういった日々がずいぶんと続いたことをいま思い出す。

「悲しい つらい」の感情が日を追うごとに小さくなって
その代わりに自分のなかにある他の感情に気づき
さらに大きく変化していく。。。

今はまた別の他の感情が自分自身のなかで優位に立ち
表に現れている。

そうしてわたしは今
5年前とは全く異なる他の感情を感じている。

そういうことかもしれない。

なんてふと
自分自身の感情の成り立ち
その推移のようなものに想像を巡らせてみたりする。

人間の心は摩訶不思議。
実におもしろい。

いつどんなときも
その人のみる世界はその人自身がつくり出している。

どんな気持ちにもなれる。

2月17日はわたしたちにとって今

「ありがとうの日」

いつもありがとうございます!

 

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