「わたし」という表現

 

 

今日はかなりわたし個人の意見

 

 

今までのわたしの人生になくてはならない

 

障害を持った方々のことが

 

今 世間で大きく取り扱われているからです

 

 

 

 

自分と少しでも違うことに対し

 

違和感を覚えること

 

 

この思考そのものが

 

「 障害 」 の 原点であり 実態

 

 

理解しにくい人物や事柄を理解しようと試みず

 

自分なりの解釈で

 

その人やその事柄を処理してしまう傾向にいく

 

 

それは決して実態に沿うことはないし

 

とても危険なこと

 

 

実のところ

 

「 障害 」 とは

 

ある状態のことを指しているに過ぎず

 

それを問題だと思う人

 

それを厄介だと感じる人

 

その人こそが障害を抱えている

 

とそういうことになるのです

 

 

そもそも

 

当事者は障害を障害として認識する必要がない

 

だって

 

それこそが間違いなく自分なのだから

 

どうしようもない

 

 

まわりからそう言われるから

 

自分は障害なの?と思うのである

 

 

本来

 

人も物事も

 

ただ目の前にあるだけのことなのに

 

受け取る方が

 

それを障害としてしか認識できない

 

そういうこと

 

 

「 障害 」 はある意味

 

受け入れる感性を持ち合わせていない人々にとって

 

都合のいい用語なのである

 

 

 

今回の事件

 

多くの方のこころを揺るがせ

 

また

 

多くの人々に課題を与えたように感じている

 

 

社会の捉え方は? と

 

いうひとことでは決して片づかない

 

片づけてほしくない

 

 

個々が自らのこころと向き合い

 

自分の考えをあらためて知り

 

感じてほしい

 

 

そして 今から

 

こころの中にある想いを

 

実践していく

 

 

 

当事者でないわたしたちにできるのは

 

きっとそこだから

 

 

多くの方の権利を奪い

 

多くの方のこころに深い傷を与え

 

多くの課題を残している

 

この多くの課題は

 

私たち個々に与えられたもの

 

 

人はいくらでも

 

自分のなかにある闇の部分を大きくしていくことはできる

 

 

でもそれを最後に止められるのは自分しかいない

 

 

自分に働きかけてくれる他者の存在も大きい

 

 

働きかけに対し いつも

 

ピュアなこころで反応できる自分でありたい

 

 

人のもつ 「 想像力 」 でしか解決できないこと

 

たくさんある

 

 

今回のことも

 

自らの健全な想像力を放棄してしまい

 

このような形の表現にいたってしまっているのを感じてならない

 

 

多くの人が

 

自らのこころの正しい表現方法を身につけ

 

私たち全員に備わっている素晴らしい力

 

「 想像力 」 を用いて

 

他者と関わっていくことができたら・・・

 

 

もっともっと

 

良い方向に進んでいく

 

 

人間にはそうできる能力が備わっているのだから

 

 

 

まず

 

目の前の人を理解したい

 

 

目の前の人への理解が

 

少しずつ少しずつ

 

その先に拡がっていく

 

 

そして

 

どこまでもどこまでも

 

遠い先まで理解できるようになる

 

 

きっと・・・

 

誰もが・・・

 

 

 

今日

 

「 わたし 」 という人間が表現したい

 

と 思ったこと

 

 

 

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