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生きていると
うれしいし
悲しいし
楽しいし
苦しいし
心地よいし
美味しいし
・・・・・・・・
たくさんの感情を日々感じる
ただ 時折
フルでない感じ
不完全な感じ とでもいうのか?
自分のこころが満タンではない感覚に陥る
それはなぜ? と考える
あきみがいたときをフルととらえているからだ
そう感じるときのわたしは
あきみがいたらもっとこんな感じ・・・
というふうに考えている
すべての感情が2倍にも3倍にもなるし
2分の1にも3分の1にもなる
それは
あきみがいたときの
あきみという存在が占めていた割合なのかもしれない
自分にとっての大きな大きな存在
人間は
自分が感じている感情でさえも
自分だけではなく
近しい人の存在があってこそ
感じているような錯覚に陥るし
どこまでが自分の感情で
どこからが相手の感情なのか?
曖昧な部分が多大にある
特に愛する人との関係性においては
共有していることがあまりにも多い
その分 両者間の感情の重なりも大きくなり
いくつもの複雑な感情が
その人自身を形作ることになる
だから人は愛する人をなくしたとき
自分の一部分をなくしてしまったかのような
すべてをなくしてしまったかのような
そんな気持ちになるのだと思う
だからといって
こう考え始めるとあまり良い方向には進まない
すべてが満たされていない感覚に陥るから
本当は今感じていることが
今の自分という人間のありのままなのに
本当はこうなんだ
もっとこうなはずなんだ
・・・・・・・・
小さく小さく凝縮された意識は
そのおもいを延々とつくり出す
それは
人間のわたし
あきみの母親
という極々小さい意識が感じていることにすぎない
本当はもっと大きくて 拡がっていて
すべてとつながっているのに
人間のわたしはそのことにきづかない
自分ひとりの感情だと思い込んでしまう
こうなると
もうあきみへの愛情とはいえない
自分への愛情
あきみという存在がそばにいない自分への愛情
いわゆるエゴ
そこに気づくたびに
私はその感情を手放している
あきみへの執着
あきみへの依存
それらは健全ではない
本物の愛とはいえない
自分の感情を
もっと大きな
自分という存在が俯瞰してとらえ
あるべき姿に整えることができたとき
あきみへの純粋な愛情だけがこころに残る
それはとってもあたたかく
穢れがなく
透き通っている
ぴかぴかの光り輝く
清らかな感情
自分の感情と向き合うのは
時に苦しい
でも 向き合うからこそ
みつけることができる
本物の感情
その都度 不要な感情を手放していけば
また前を向くことができる
人生は その繰り返し
こうしてまた
前に進むことができる気がする
わたしはあきみへ向かっていく・・・
 

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